日本育種学会名誉会員、坂井健吉先生は令和5年7月1日98歳にて逝去されました。
坂井先生は大正13年8月22日三重県に生まれ、昭和19年10月に京都帝国大学農学部に入学と同時に、兵役につかれ、終戦後、京都大学に復学し、昭和23年12月に卒業されました。同年同月に農林省に入省、農事試験場企画室、農業改良局研究部、農業技術研究所物理統計部を経て、昭和28年4月に九州農業試験場作物第二部、昭和42年3月に農事試験場作物部に勤務され、この間、専らサツマイモの品種改良研究に取り組まれました。
育種家として、多くのサツマイモ品種を育成されましたが、これらの中でも、先生の特筆すべき功績は、「コガネセンガン(昭和41年)」育成です。当時としては、画期的な高でん粉多収品種であり、でん粉原料や焼酎原料用として、令和年間にいたるまで、我が国の作付けシェアで首位を占め続けました。特に南九州の畑作農業に対する貢献は非常に大きなものがあります。それ以前に育成された「農林1号」や「農林2号」等は、戦中・戦後の食糧難の緩和に貢献しましたが、その後、育成品種の能力向上は停滞気味でした。先生は、この停滞の要因として、交配親の遺伝的多様性が狭いことに着目し、海外からの交配親系統の導入を積極的に進められました。さらに塊根収量についてはヘテロシスの効果が、でん粉含量については遺伝子集積の効果が高いことを見いだし、大規模・効率的な選抜方法の考案と相まって、この大品種育成に成功されました。この育種戦略は、「かんしょ育種における主要量的形質の変異の向上拡大に関する統計遺伝学的研究ならびに高度変異体の選抜法に関する数理統計学的研究」としてとりまとめられ、昭和37年3月京都大学から農学博士を授与されました。また、昭和42年には日本育種学会賞、昭和45年には農林大臣賞、昭和62年には日本農業研究所賞が授与されています。さらに平成5年に行われた農業試験研究一世紀記念事業の中で、歴史に残る功績として農林水産技術会議会長賞を授与されています。
昭和48年8月からは、研究企画やマネジメント業務に転じ、農林省農林水産技術会議事務局研究管理官として、畑作や果樹、野菜の研究目標の立案、育種基本計画の策定、農林省初の大型プロジェクト研究である「グリーン・エナジー計画」の企画・立案・計画策定等に主導的な役割を果たされました。
昭和51年7月からは、農業技術研究所生理遺伝部長として、4カ所に分散していた同部をまとめ、同所の筑波移転を成功に導かれました。また、バイオテクノロジーの将来性を予見し、同部の研究方向の一つとして位置付けられたことは今日につながる功績であると思われます。
昭和55年7月には、農業技術研究所長に就任され、所の運営にあたるとともに、筑波移転後の国の農業試験研究体制の検討にも主導的役割を果たされました。この過程で、環境研究の将来性や重要性を示され、そのことが、昭和58年12月の農業環境技術研究所の設立につながりました。先生は設立と同時に同所の初代所長に就任され、今日の温暖化対応研究等に道を開かれました。
本学会では、昭和57年4月から昭和61年3月まで、編集委員長を務められ、学会発展に貢献されたことから、平成3年3月に名誉会員に推挙されています。
農林水産省退官後は、昭和59年5月から平成3年5月まで、社団法人農林水産技術情報協会の専務理事として、農林水産業の研究開発に関する情報交流や産学官の連携強化などに多大な貢献を果たされました。この他、坂井先生は、技術士試験委員、専門技術員資格試験審査委員、農業資材審議委員、科学技術会議専門委員、木原記念横浜生命科学振興財団理事、農業生物遺伝子構造解析技術研究組合理事、茨城県農業技術顧問等の各種委員や顧問を歴任され、研究だけでなく、技術普及の場面でも精力的に活躍されました。これら多くの功績により、平成6年11月には勲三等瑞宝章を授与されています。
坂井先生は、公職を退かれてからも大変お元気で、春と秋には、自ら運転されて、私たちのサツマイモ育種現場を訪問され、気さくな語り口で、経験と学識に裏打ちされたアドバイスを頂いたことを思い出します。また、ごく最近まで鹿児島県などサツマイモ産地に、足繁く出向かれ、様々な助言をされたと聞いています。先生の訃報に接した時には、まさかとの思いでした。ここに先生のご功績を偲び、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
(中谷 誠)