お知らせ

村松幹夫先生を偲んで

村松幹夫先生
村松幹夫 先生

 岡山大学名誉教授村松幹夫先生は1928年6月6日に京都でお生まれになり、2024年4月26日に岡山市でご逝去されました。享年、95歳でした。

 先生は、日本植物学会、日本遺伝学会、種生物学会、American Association for the Advancement of Scienceなどにも所属されましたが、岡山大学退職後も永く講演発表を続けられ、その姿勢は後進の模範であると評価され2008年に日本育種学会の50番目の名誉会員となられました。

 研究活動としては、コムギ属および極近縁属、カモジグサ属―エゾムギ属complex、オオムギ属、サツマイモ属、アサガオ属、イネ科タケ連などを対象として、種・属間雑種を育成しそれらの成熟(減数)分裂時の染色体対合などの細胞遺伝学的研究をもとに、栽培化に関与した遺伝子や種分化の解明研究を一貫して進められました。

 1953年に京都大学農学部農林生物学科を卒業され、1957年まで財団法人木原生物研究所の研究員、1959年9月まで京都大学農学部助手をされましたが、この間1957年に渡米し、ミズーリ大学E. R. Sears博士の指導のもと1961年に学位論文をまとめられました。それがGeneticsに掲載されたコムギの穂型に関与するQ/q遺伝子の累積効果の研究(Muramatsu 1963)です。栽培化に係わる重要な遺伝子の効果を解明したもので、その後現在に至るまで、多方面から検証研究が続けられています。1963年の帰国後、木原生物研究所でオオムギの遺伝・育種の研究責任者として働き、1965年には改めて京都大学から農学博士を授与されています。1971年には岡山大学農学部に迎えられ、1994年の定年まで教授を務められました。2023年3月の静岡大学で開催された日本育種学会春期大会における「日本産タケ連植物の遺伝育種学的研XLIV. 属間交雑親和性、育成各雑種、並びに日本起原属の研究結果が示す種形成のホットスポットとしての日本列島について」が最後となりましたが、ササ・タケの雑種育成に関する研究について、合計44回の講演発表を行われました。常に発表時間をオーバーするため、発表は最終日の最終発表となることが多かったように思いますが、育種学会の名物先生であったことは間違いありません。この研究では、ササ・タケ雑種の属間雑種を人為的に育成し、日本各地に自生する自然雑種集団との比較研究からその由来解明に迫ろうとされ、岡山大学退職後のライフワークとなりました。これらの一部は、富士竹類植物園(静岡県駿東郡長泉町)と琉球大学農学部付属亜熱帯フィールド科学教育研究センター上原研究園(沖縄県中頭郡西原町)へ生前に分譲され、保存されています。しかし、多くの他の材料が育成者とともに消えようとしていることは誠に残念なことです。

 作物やササ・タケに関する研究に加えて、故木原 均先生から引き継いだ自由学園(東久留米市)の教育にも尽力され、「自然誌」という分野を立ち上げられ、植物の由来、多様性、分化(進化)論を基本として、里山に自生し利用されてきた自然集団の変異などの解析にも取り組まれました。

 また自然科学研究だけではなく、自然と人のかかわりなども考慮した実践的な取り組みをもなされました。その一つが永年、ご自宅近くの岡山市北区絵図町(京山地区)に流れる観音寺用水「緑と水の道」への市民参加活動です。16年にわたる町内会長の傍ら、この用水路におけるゲンジボタルや自生植物の再生などに取り組まれ、その活動を通して自然と人の共生、さらに人と人との繋がり(輪)の形成などで地域貢献されました。

 亡くなる前日まで、毎週木曜日の夜八時から始まるタケ・ササ勉強会に病室からリモート会議に繋がれ、参加者の議論に耳を傾けられていました。晩年、「継続」が力を生み出すということを述べられていたそうです。まさに生涯現役、絶えることのない研究に対する情熱とモチベーション、このような村松先生の超人ともいえる後姿を覚えながら、我々後に続く者も見習っていきたいものです。

 告別式の日(4月30日)、ご自宅の竹林では、先生をお送りするように、百二十年に一度咲くという黒竹(くろちく)の一斉開花が見られました。謹んで村松幹夫先生のご冥福をお祈り申しあげます。

(福田善通)