記者発表

ゲノム編集技術に関する報道等における誤解を減らすために

日本育種学会では、「ゲノム編集技術に関する報道等における誤解を減らすために」と題したプレスリリースを発出しました。


最近、ゲノム編集技術に大きな注目が集まっています。ゲノム編集とは、特定の遺伝子(DNA 配列)に効率的に変異を導入できる技術で、医療、農業、工業などあらゆる分野でその活用が期待されています。しかしながら、まだ技術の認知度が低い最先端技術であるがゆえに生じると考えられる誤解による懸念の声が聞かれます。そこで、報道関係者の方々にむけて、ゲノム編集技術を育種に利用する際の基礎となる情報を提供するとともに日本育種学会の考え方を共有させていただきます。


2020 年のノーベル化学賞には、特定のDNA 配列に効率的に変異を導入できる「ゲノム編集」の新たな手法 CRISPR/Cas9 法を開発したドイツの研究機関とアメリカの大学の研究者2 人が選ばれました。この手法を用いたゲノム編集技術は、基礎的な研究や、医療、農業、工業などあらゆる産業分野で世界的に用いられ始めています。アメリカでは高オレイン酸ダイズが商業利用され、日本においても、ゲノム編集技術を利用してストレス緩和や血圧上昇抑制など健康機能成分(GABA)を従来のトマト品種よりも多く蓄積するトマトを筑波大学が開発し、すでに厚生労働省や農林水産省への届出が完了し商業利用への準備が進んでいます。本年4 月23 日には、筑波大学発のベンチャー企業であるサナテックシードがゲノム編集技術を利用して開発したGABA高含有トマト「シシリアンルージュハイギャバ」の苗配布を開始する説明会を開催し、今後、ゲノム編集作物への理解を進める目的で、家庭菜園向けにこのトマト苗の無料配付を始めると発表し、5000 名への配布が決まったとのことです。

今後の世界の人口増加への対応やSDGs 実現のためには、食料の安定生産に貢献する優れた品種が不可欠であり、より優れた品種を短期間に育成可能な育種技術としてゲノム編集技術に期待が集まっています。しかし、実際の利用に際しては、さまざまな報道がなされ、またSNS 等でも盛んに議論されていますが、それらの中には、科学的に誤解のある情報が含まれているものが多々見受けられます。日本育種学会は、ゲノム編集技術について、ゲノム編集技術を極めて有用な育種技術の一つとして位置づけ、その適正な利用を推進しています。また、ゲノム編集技術を利用した育種について、科学的見地に基づいた正確な情報を、学会HP を通じて多くの皆様にわかりやすく提供していきます。

本プレスリリースでは、科学的に正確なゲノム編集技術に関する下記の情報を説明させていただきます。
① 遺伝子を改変することに対する誤解
② オフターゲット変異について
③ 適切なゲノム編集技術の利用に向けて

お問い合わせは、日本育種学会LMO/ABS 委員会 委員⾧ 井澤毅(東京大学,(takeshizawa (at) g.ecc.u-tokyo.ac.jp; 03-5841-5063)までお願いします。
メールアドレスは、(at) を@に変えて送付ください。

①遺伝子を改変することに対する誤解<従来の育種技術について>

ゲノム編集技術の育種利用に関する報道やSNS 等からは、遺伝子を改変することへの誤解が多く見受けられます。そこで、ゲノム編集技術の育種利用を正しく理解するために、まず、比較対照となる技術として従来の育種技術に関して説明します。安全性・有用性が確立している従来技術との比較が肝要になるからです。

1960 年代に数億人規模の飢餓に苦しむ人を救ったとも評される「緑の革命」における小麦や稲の育種には、人工交配育種と呼ばれる技術が使われました。品種内に存在する遺伝情報の違い(DNA 配列の違い=DNA 変異)を交配によって混ぜ合わせ、その中から役に立つDNA 変異の組み合わせをもつ個体・系統だけを選ぶことで、新しい品種を生み出してきました。当時は、DNA 配列の違いを調べる技術はなく、収量性等の農業上有用な、目に見える、または計測・分析可能な特性だけを指標に選抜をしていました。この選抜過程で、生育不良等を起こす個体や病気に弱い個体等、農業上有用でないと考えられた個体はすべて廃棄されてきました。このように役に立つDNA 変異を選抜してきた育種には百年以上の歴史があり、急激な世界人口の増加に対応するための作物の生産性の向上に大きく貢献してきました。また、1960 年代からは、突然変異育種と呼ばれる、ガンマ線、X 線、重イオンビームや化学薬剤を用いてDNA 変異を人為的に誘発し、その変異体から有用な個体を選抜することにより、作物の品種改良を進める育種も盛んにおこなわれてきました。この場合も、目に見える、または分析可能な特性を対象とした選抜により品種が育成されました。このような育種技術と品種改良がなければ、70億人を超える人間の食料を賄うことはできていません。

近年は容易にDNA 配列を調べられるようになり、どのようなDNA 変異が育種によって選ばれていたかがわかるようになりました。イネの全遺伝子のDNA 配列は約3億8千万個の塩基がならんでいることが明らかとなっていますが、世界中のイネ品種を3000 系統以上解析した結果、そのDNA 配列には2千9百万ケ所に品種間差としてのDNA 変異があることが報告されています。また日本のイネでも、例えばコシヒカリと日本晴という品種の間で、約10万ケ所でDNA 配列に違いがあります。つまり、現在の品種は多くのDNA 配列の違いをもつことで、美味しいとか、病気に強いとか、品種に特徴的な違いを生み出すことができているわけです。反対に、不適当なDNA 変異は育種の選抜過程で排除されます。

ゲノム編集技術の育種利用に関する報道では、このような従来の育種におけるDNA変異の有効利用を踏まえた議論がほとんど行われていません。また、ゲノム編集技術を利用する場合であっても、従来の育種と同様に選抜や試験栽培を経て、品種が育成されるという重要なポイントも議論されないことが多いようです。私たちが自然のDNA 変異や人為的なDNA 変異をうまく利用してきたことを認識し、その上で、ゲノム編集技術の育種利用について改めて考えてほしいと思っています。

②オフターゲット変異について

ゲノム編集技術によってオフターゲット(想定外のDNA 変異)が生じるから危険だという議論がありますが、本当はどれほど危険なのでしょうか。私たち人間が育種選抜において、非常に多くの、想定外のDNA 変異をうまく利用して、目に見える、または計測・分析可能な特性だけを指標とした選抜により育種を行ってきたことは上記の説明の通りです。

オフターゲットという専門用語は、既知のDNA 配列情報を用いて、変異を導入したい配列を決め、ゲノム編集技術で、その狙ったDNA 配列上に変異を導入できた場合、それをオンターゲット変異と呼ぶことに対し、DNA 配列が似ているために、狙っていないDNA 配列に変異が入る現象をオフターゲット変異と呼び始めたことから使われ始めました。従来の育種では、多くのDNA 変異(当時はモニターできなかった)の中から、良い特性を生み出す変異をもつ系統を、目に見える、または計測・分析可能な特性等を指標として選抜することで優良品種を育成し、世の中に送り出してきました。前述したように、同一作物の品種間内のDNA 変異の豊富さに比べて、ゲノム編集技術により作物に導入されるオンターゲット・オフターゲット変異は非常に少ないという特徴があります。加えて、育種の過程において交配や選抜により、不要なDNA 変異を取り除くことが可能です。

ゲノム編集技術の「医学での利用」と「育種への利用」におけるオフターゲット変異発生に関する議論において、「安全性」に関して混同されている点を正しく理解していただきたいと思っています。医学での利用におけるオフターゲット変異は、例えばヒトの治療においてはその変異をもった個人が副作用で重篤な被害を受ける可能性がありえるため、生じることが許されないものです。従って、医学利用におけるオフターゲット変異の発生についてはその低減化に向けた研究が進められています。一方、育種選抜におけるオフターゲット変異は、食の安全性を脅かす、あるいは生物多様性に著しい影響を及ぼすなど不適当な変異であれば、選抜過程において廃棄され市場に出回ることはありません。

安全性に対するこの違いを混同した報道・議論が多いのが現状です。育種の選抜過程で不要なものを取り除くステップがある育種利用と、不要なものを生じさせる失敗例が許されない医学での利用を区別して考えることが大切です。

③適切なゲノム編集技術の利用に向けて

・安全性への配慮~特に育種の歴史が短い生物種への利用のケース
上記の議論から明らかなように、結果として、多くのDNA 変異を選抜してきた、育種の歴史が十分ある生物では、扱うDNA 変異が相対的に少ないゲノム編集技術の育種利用は従来技術よりも安全と考えられるわけですが、ゲノム編集技術の育種利用は、育種の歴史があまりない、多様な生物種も対象なってきています。このような生物への育種利用を考えるときは、環境省や農林水産省、文部科学省などの省庁とも情報共有を図りながら、その編集個体の野外での特性等の解析を慎重に進めることが必要です。例えば、酵母等を除く微生物・野生植物・昆虫・魚類等がそれらの生物に相当すると考えられます。

また、ゲノム編集技術の育種利用における重要なポイントとして、新たに開発したゲノム編集変異の有用性等の特性評価には、人工的な環境下での評価では不十分な場合が多く、必要に応じて野外環境下での評価を行うことが不可欠です。この点を考慮した現在の関連省庁の示した取扱方針は適切であると考えますが、野外での育種選抜の経験や実績が少ない生物の場合、関連省庁のガイドラインを遵守したうえで、ゲノム編集生物を作成した開発者自身が、対象生物の過去の育種歴史や生物情報を考慮しながら、適切な評価を行うことが大切です。

海外では、ゲノム編集技術を体験できる一般向けのキットも販売されています。すなわち、今後、日本においても、育種に限らず、教育機関における学生実験等でも実施できるようになる可能性がある技術です。日本育種学会としては、企業などの開発者のみならず、教育関係者、さまざまなステイクホルダーのみなさま等、より広範な人々を対象としたゲノム編集技術を含めた育種に関連する研究・教育資料等を提供する機会を設けたいと考えています。